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花火と生きる
日本の花火
世界の花火の起源
花火の要素である火薬の起源をさかのぼると、中国では紀元前には火薬の成分である硝石を使った爆竹が生まれ、その後一世紀には火薬を合成し、火薬を活用した武器を作ったと言われています。
その火薬は14世紀にアラビア人の手を経てローマに伝わりました。火薬は武器として使われましたが、やがては貴族や王族を楽しませる花火にも使われるようになりました。
16世紀にはヨーロッパ諸国に広まり、17世紀以降は花火技術を教える学校ができたり、花火大会などが開かれました。
日本の花火の起源
日本での花火の歴史は1543年に種子島に鉄砲と火薬が伝来したことに始まります。
その後、火薬から花火が作られた「花火の起源」についてははっきりしたことがわかっていませんが、寛保元年(1741年)に徳川家康の一代を記録した「宮中秘策」に花火がはっきり登場する場面があります。それは慶長18年(1613年)8月、花火をよくする明人を連れたイギリス人が長崎からやってきて家康に引見し、(陣羽織などにする布地の)猩々緋や、象眼をほどこした鉄砲、望遠鏡などを献上し、6日には花火をみた、というものです。このイギリス人というのは長崎の平戸に商館をつくったジョン・セーリスのことで、国王ジェームズ一世の国書をたずさえ、正式の使者として駿府に赴き家康と会ったという人物です。この時のジェームズ一世の国書が大英博物館に現存しているということから、ジョン・セーリスが駿府で家康と会ったことは歴史的事実のようです。これ以前に花火の起源についての確実な文献が見あたらないことから、これをもって日本での花火の歴史のはじまりとしてよさそうです。
さて、この時家康はどんな花火を見たのでしょうか。それは「駿府政事録」という文献に「二之丸立花火」と記されています。昔の花火は、竹の節を抜いた筒に黒色火薬をつめて、その一端に点火し火の粉を吹き出させる、いわゆる「立火」とよばれるものですが、「立花火」という語からして、おそらくこの種の花火だったのでしょう。 この家康の花火見物以降、花火は普及していったようです。
これから30年後の慶安元年(1648年)には隅田川以外での花火禁止のお触れが出されています。このことから1648年には既に玩具花火のような花火が作られたり売られたりして多くの人々が花火を楽しんだのかもしれません。しかしそのころ江戸の町は軒をつらね、しかも茅葺きの屋根でしたでしょうから花火による失火を恐れて花火をつくったり楽しんだりするのを禁じたのでしょう。
花火の発展
万治2年(1659年)、大和(奈良)篠原村から火薬について素養のあった弥兵衛という男が江戸に出稼ぎに出てきました。弥兵衛は日本橋に小さな玩具花火の店を作り商売を始めました。弥兵衛のつくった花火は葦の管に練った火薬を小さな玉にしてつめ、火をつけるとあでやかな火の炎が飛び出すというもので、この花火は人気をよんでよく売れました。 これが現在まで13代続く花火屋「鍵屋」の始まりです。
享保18年(1733年)、隅田川の川開きの時に花火を打ち上げるようになりました。この前年江戸ではコレラが流行し死者が道ばたや川に捨てられるという悲惨な状態でした。これらの死者の霊を慰め、悪疫退散を祈って、八代将軍吉宗が水神祭を行い、川施餓鬼を行い死者の供養を行いました。そして翌18年にこの水神祭、川施餓鬼にちなんで川開きに大花火をあげるようになったのです。それ以降両国川開き花火は年中行事となりました。
このころの花火はまだ「立火」や「仕掛花火」が中心で打ち上げ花火は登場しませんが、この20年ほど前の文献に木砲でノロシを打ち上げていたという記録があり、享和4年(1804年)には鍵屋などの花火師はこのノロシの技術を研究し打ち上げ花火を上げるようになったようです。
玉屋江戸追放
さて、「玉屋ーっ!鍵屋ーっ!」というかけ声は現代に残っていますが、実はこの玉屋は一代で終わってしまった花火屋だということは知らない人も多いことでしょう。
玉屋は幕末に近い文化から天保時代にかけて、鍵屋とともに両国の川開き花火を共演する代表的な花火屋でした。もとは鍵屋の手代で清吉といいましたが、後に独立して両国に店を出し玉屋一郎兵衛を名乗りました。鍵屋玉屋が肩を並べる時代が約30年続きましたが天保14年(1843年)4月、将軍家慶が日光参拝に出発する前日に玉屋は不覚にも火を出してしまい玉屋が全焼したほか、町並みの半丁ほどを類焼させてしまいました。当時失火は重罪でしたし、家慶の日光出立の前日にさわがせたということもあって、玉屋は江戸追放となってしまったのです。
和火から洋火へ
明治12年(1879年)、既にヨーロッパなどで花火の火薬として使われていた塩素酸カリウムが輸入され、日本の花火が大きく変わりました。それまでの花火は燃焼温度の低い黒色火薬系で色は赤橙色でしたが、塩素酸カリウムを加えることによって燃焼温度が上がり赤や緑などのはっきりした色がでるようになりました。
このように温度の低い黒色火薬系だけの花火を「和火」といい、明治以降塩素酸カリウムが加えられて色が出るようになった花火を「洋火」といって区別しています。
隅田川に花火蘇る
幕末の動乱で絶えていた大川の川開き花火は新しい時代とともによみがえりました。そして鍵屋の十代弥兵衛は、ようやくまん丸く花を咲かせることに成功したと言われています。また十一代弥兵衛は真っ先に塩素酸カリウムを使い、赤や青色を出すのを研究し、明治20年(1887年)にはさらに新しい薬剤を使って赤、緑、青の発色に成功、隅田川・両国の花火を隆盛に導き、鍵屋の名をいっそう高めました。
再び昭和に入り太平洋戦争で隅田川の花火が中断され、復活したのは戦後の復興がようやく軌道にのってきた昭和23年でした。その後36年に再度中止となりましたが、49年に再開され現在も隅田川の川面に華麗な花の色を映しています。
現代の花火
現代の花火師たちは伝統の技術を受け継ぎつつ、打ち上げ方法の近代化やコンピュータシミュレーションを使った演出など新しい技術を取り入れながら、よりいっそう観客を楽しませるための研究を行っています。
日本花火は海外でも人気が高く、世界の"日本花火"としてこれからも日本人だけでなく、世界中の人々に愛され続けることでしょう。